s_hskz
気合いを入れてお返事を書いております。しばしお待ちいただければと存じます。
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書きました。以下。
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>やまだに九十九が関係してるとしたら・・・
⇒いい感じの着眼でございます。
はい、関係しているのですが、「百に足らない」という意味で関係しております。古代人の感覚(特に歌謡における精神)には不思議なところがございまして、それらがいったん忘れ去られている現代の私たちにとっては「どうしてそうなった、意味不明っ!…ああかもしれない、こうかもしれない」とケンケンガクガクの論争を引き起こしたりしているようです。この「山田」につきましては、そういったこともなく、わかりやすかった事例なのでしょう。古代人の感覚がわかっております。意味としては「八十」なのですが、たとえば『万葉集』では漢字表記としては「百不足」が採用されている事例があります。「八十」は、「やそ」という言葉でした。「百(=もも)に足らない八十(=やそ)」という決まり文句が感覚的に受け入れられていたようです。八百万の神(やほよろずのかみ)といったことばでもわかりますとおり、八と言えば〈大きな数〉を表すときのフレーズなのですが、それでも、更に上の単位で量れば不足はしています。このあたりの感覚が古代にはあったのだと思われます。ところで「百不足」と「八十」の関係はわかりましたが、なぜ「山田」と関係があるのかと疑問がでます。 実は、単に、古代人のお遊びなのです。今風に言えば駄洒落にすぎません。「八十(やそ)」と「山田(やまだ)」とで〈や〉が先頭にあるだけの共通点があるだけなので、私たち現代人としては驚くばかりなのですが、古代の歌謡では、こうした遊びが風流とされたようです。
以下余談ですが、
『伊勢物語』に、「ももとせに ひととせたらぬ つくも髪 われを恋ふらし おもかげに見ゆ」という歌があります。
老女の白髪が、つくもという植物に似ているから……でもあるのですが、「百」という字から「一」をひくと「白」という字になるので「白髪」にかけていうダジャレでもあります。
また、「つづらをり」なのですが、当初は「葛折り」と表記されていた模様でして、
「つづら」のつるが曲がりくねっ ていることからきている表現のようです。『枕草子』でも使われていた語のようですね。山道がくねくねとしている際に「つづらをり」とされ、道の折れの数が際限ないことから「九十九」の表記があてがわれたことと思われます。
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肝心なことは何も言わずに長い文を書き連ねましたが、ヒントをおだしさつつケムにマク作戦です。お許しください。