>「P→Q」の真偽はP,Qの真偽が決まれば決まりますが、
>「PだったらQ」の真偽はP,Qの真偽が決まっていても決まるとは限りませんので
>これをP,Qを使った論理式で表すことはできないのではないかと思うのです。
「PだったらQ」と言っても、単純に「P→Q」と置き換えるのは、
今回のケースのようによろしくない
ので、意味を考えて、例えば
>>34や、
>>39などのように、論理式に置き換える必要がある、と私は考えています。
つまり、別に質問の形式が、「PだったらQ」という形でなくてもいいんです。
「Pという質問に、Qと答えますか?」という形でも、何の特別な処理をせず
古典論理の範囲で表現しようとすると、
>>34(やその類型)みたいになる、
と言うだけです。
特別な処理(例えば仮想世界論を前提)をすれば、古典論理の範囲で、
何も問題のない論理式で表せます。
つまり、(∃x)(x∈【質問可能者】∧ E(x,A) ∧ F(A)=「はい」)において、
x∈【質問可能者】がたとえもう質問できない、という前提があったとしても、
x'∈【仮定の世界の質問可能者】は質問できますので、問題ないです。
ただ、そもそも論理式で表せない、となると、一体どういう時に「真」で、
どういうときに「偽」なのか、やはり判りません
。それは「はい」「いいえ」で
答えさせる質問文として不適格だと個人的に思っています。
ちなみに、「門Aは天国の門ですか?」は対応する論理式「門A=天国の門」の
真偽を問う質問なので「門A=天国の門」なら真、「門A≠天国の門」なら偽、
とハッキリわかります。
>「PだったらQですか?」という質問は、
>Pが真だと仮定し、それに矛盾するような事実は無視して、Qが成立するかどうか
>を問うているのです。
反事実的条件文は特別な仮定をすべき、ということですよね。
この考え方自体は私も賛成ですが、これも突き詰めていくと、「仮定であれ、
現実はPが偽なのに、Pが真である、というのは、どういうことか?」
ということが常に問題になります。
(だから仮想世界論みたいなことを言いださなければならないのだと思ってます。)
ちなみに、別に仮想世界論の話ではない解決策もあります。矛盾許容論理、などが
そうです。ただ、仮想世界論を提案したデイヴィッド・ルイスは
それはやりすぎだ、と批判しています。
あと、「君が私だったら、私と同じことをしたかね?」で答えたことは、
仮想世界論的に言えば、「仮定のPが真な世界」での「仮定な答え」ですから、
君が私ではない現実の世界で通用するような、実用的な意味はありません。
>論理式としての解釈を考える上で、自然言語での回答と同じ回答になるように
>するのであれば、
>上記のケースは発生しませんので、わざわざ論理式を考える必要はありません。
残念ながら、「「門Bが天国の門か」という質問に「はい」と答えるか?」で
うまくいく、とすることに納得いかない人は、少数派かもしれませんが、
私以外にも結構いるのが現実です。つまり、自然言語的に、問題があるわけです。
うまくいくとすることに納得のいかない人の要点は、
「前提の1回しか質問できない(つまり、門番は1回しか答えない)」という
問題文の前提部分との整合性が引っかかること、という部分に尽きます。
>>34でいう、『F(F(X))=「はい」がP(X')と同じ』と説明されても、
それは説明されなくてもわかってるのだが、Fを2回使えるって前提から
逸脱していないか?というわけです。(-へ-;)
良くあるケースは、これでうまくいく、と考える人が
事実A『F(F(X))=「はい」がP(X')と同じ』の説明をし、
事実Aを理解できた人が、『うまくいかない、と考えている人は
事実Aが理解できていないんだな』と勘違いをし、理解できない奴が悪い(・o・‖)、
となるケースです。
うまくいかない、と考えている人は、事実Aは理解できても、
事実Aの説明は、うまくいくことの説明になっていない、と考えます。
Fを1回しか使えない、とする前提との整合性を気にするわけです。
もし、うまくいくことを、この納得しない人に対しても
正当化したいのであれば、それなりに準備が必要です。
(仮想世界論などを持ち出し、F(F°(X'°))で、F°は仮想世界での話であり、
その世界では、X'°はX'と真偽が一致するのだ、だから、Fを一見2回使って
いるように見えるが、F°とキチンと区別すればよい
、等など)
私は、うまくいくことを説明するのに、このような説明を要する質問は
やはり問題だと思ってます。
いはら 2010/02/18 08:44
論理式で表すことができるとは思っていないというのは、
自明な論理式以外では表せないのではないか、ということです。
「門Aは天国の門ですか?」
「「門Bが天国の門か」と聞かれたら、あなたは「はい」と答えるか?」
どちらも「Pは真ですか?」という形式の質問とみなすことはできます。
それ以上分解できなくても、その真偽が判定できないことにはなりません。
「門Aは天国の門ですか?」
はそれ以上分解できないと思いますが、真偽が判定できるのは明らかです。
「P→Q」の真偽はP,Qの真偽が決まれば決まりますが、
「PだったらQ」の真偽はP,Qの真偽が決まっていても決まるとは限りませんので、
これをP,Qを使った論理式で表すことはできないのではないかと思うのです。
「PだったらQですか?」という質問は、
Pが真だと仮定し、それに矛盾するような事実は無視して、Qが成立するかどうか
を問うているのです。
そうでないとすると、
「君が私だったら、私と同じことをしたかね?」
のような質問は実用的な意味がなくなります。
そう考えれば、ゲーデルさんが挙げられた4つの問題点は問題とはいえません。
唯一問題となるのは、「PならばQ」を「P→Q」と解釈したときのように、
「PだったらQ」が論理式として解釈できて、
その解釈に従うと自然言語での回答と異なる場合がある。
というケースだけだと思われます。
論理式としての解釈を考える上で、自然言語での回答と同じ回答になるようにするのであれば、
上記のケースは発生しませんので、わざわざ論理式を考える必要はありません。
>いずれにせよ、古典論理の範囲で論理式で表せば、
>質問文が「〜と聞かれる」ことを前提として質問している以上、
>問題が起こります。
今までに挙げられた論理式は質問の内容を正しく表しているものではないので、
問題が起きているとはいえない、と思います。
こういった議論が発生している以上、問題のある質問といえなくもないですが、
「かつ」「真である」といった専門用語っぽい言葉を使った質問よりは(私にとっては)好ましいです。