>質問Aに対して門番が「いいえ」と答えるものと我々は考えがちである。
>しかし、質問Aの意味するところを論理式で表して検証してみると、
>実は「はい」と答えるのが論理的には正しい。
>このような論理的な答えと感覚がずれている質問はするべきではない。
うーん

、ちょっと違います。(;v;)
もともと、私の主張は
>>12で書いていましたように、
結論:『良くある解答の質問文は、色々問題点がある』ということです。
以下が
>>12の要点です。
1.実はそれほど単純ではない
2.「〜と聞かれる」ことを真として考えている。
3.質問の回数と質問する人が限られる場合、問題が起こることがある。
4.自然言語的に捉えられた場合にも、問題が起こる。
今もこの骨子に変わりはありません。
実際、
>>39のいはらさんの解釈でも、
>>34の私の解釈でも、
質問する人がいない、質問できない、などととすると、うまくいきません。
(だって、正直者は、Xの内容によらず、常に「はい」とか
「いいえ」とか言ってしまうわけですから)
つまり、古典論理の範囲で表すと、良くある質問文は、問題が起こるわけです。
>>34以降、私の主張が少し変わったのは、
>>12の2.の内容の部分です。
それまで、多少盲目的に大枠で「P→Q」の論理式に置き換えていましたが、
実際は、意味を読み取って、古典論理の範囲で表せば、P→Qの形に
する必要がない、ということが判明しただけです。
いずれにせよ、古典論理の範囲で論理式で表せば、
質問文が「〜と聞かれる」ことを前提として質問している以上、
問題が起こります。
>論理式で表すことができるとは思っていないのですが
私的には、それならば、論理式で表せる答えの方がいいのでは?
と思ってしまいます。
論理式で表せて、天国の門を当てることのできる質問の方が、
論理式で表すと失敗する質問や、そもそも論理式に表せない質問より
いいのではないか?ということなのです。
そもそも、論理式であらわせない=真偽の定義すらできない
=門番が「はい」「いいえ」で答えようがない=失敗、に見えます。

よくある質問文「右が天国ですか?と聞いたら「はい」と答えますか?」
でもうまくいく、というものを正当化したいのであれば、
対応する論理式を表して、それでうまくいくことを示す必要があると
個人的には思っているのが、そもそもそれが出来ないとなると、
正当化する根拠に乏しい、と私は思ってしまいます。(-へ-;)
追記:
語弊があるかもしれないので、少し追記します。
>いずれにせよ、古典論理の範囲で論理式で表せば、
>質問文が「〜と聞かれる」ことを前提として質問している以上、
>問題が起こります。
としましたが、反事実的条件文は、それなりに色々解釈の仕方がありますので、
(ボムボムさんが紹介してくれましたように、反事実的条件文を提唱した
ディビットルイスは、仮想世界論での解釈みたいです。)
古典論理に解釈するやり方も、千差万別みたいです。
例えば仮想世界論的な解釈でやれば、確かに「回数制限」が事実上なくなり、
古典論理の範囲で論理式で表現しても、何も問題は起きません。
ただし、その代償として、「仮想世界」などといった概念を導入しなくてはなりません。
>(∃x)(x∈【質問可能者】∧ E(x,A) ∧ F(A)=「はい」
>としたわけです。
それでは本末転倒ではないですか!
元々ゲーデルさんの問題提起は、
質問Aに対して門番が「いいえ」と答えるものと我々は考えがちである。
しかし、質問Aの意味するところを論理式で表して検証してみると、
実は「はい」と答えるのが論理的には正しい。
このような論理的な答えと感覚がずれている質問はするべきではない。
ということでしょう?
我々の感覚と一致するように論理式を構成するのならば、
ずれが発生する余地がありませんから、何の意味もないことになります。
質問が意味しているものを字義どおり忠実に論理式で表して、
答えがどうなるのかを検証するべきでしょう。
私はボムボムさんと同じく、論理式で表すことができるとは思っていないのですが(>o<)