毎回長文ですみません(・o・‖)。
誤解を生みやすい話ですので、どうしても長文になってしまいます。(;o;)
ボムボムさんは、「正直者と嘘つき」の問題は、
どのような論理の問題として扱うべきだと考えているのでしょうか?
1.古典論理の範囲の推論規則と論理記号(∨、∧、→、¬、=、∀、∃、=、⇔)を
用いて答えるべき問題
2.矛盾を許容する立場(常にP∧¬Pが偽とは限らない)で答えるべき問題
3.真偽以外の値を認める立場(常にP∨¬Pが真とは限らない)で答えるべき問題
4.様相論理や時制論理、反事実的条件文など、
現代的な一解釈を許した論理の範囲で答えるべき問題
私は、答えとして1の範囲で解ける問題であれば、できれば1の範囲で解いた方がよい
とする立場です。(つまり、4としての解答を認めないわけではないけども
多少問題がある、とする立場)
>「はい or いいえ で答えられる質問」
>とは書いていますけど、その質問文を論理式に書き直せるかどうかが疑問です。
私の立場からすると、「論理式で書き直せるような質問」を優先すべき
ということになります。実際、昔ながらの多くの問題は、
「論理式で書き直せるような質問」でほとんど解くことが出来ます。
出来なければ、2.3.4.などを駆使した質問をすればいいと思います。
よく自己言及的な質問文でうまくできる場合がありますが、自己言及文の扱いも
色々あるので、できれば使わずに1の範囲を優先すべき、というものです。
(自己言及的な質問は、古典論理でも、うまく定義さえすれば使えます)
さて、「◯◯と聞かれたら、…と答えるか?」と言う質問は、私は1の範囲で
一応定式化可能かと思います。ただ、キチンとやると複雑になると思いますが。(-へ-;)
4の立場を認めずに、古典論理の範囲で表現しようとした場合は、
(
>>14のコメの後半参照)
「○○と質問する人が存在するならば、その質問に対する答えが「…」である」…@
この命題は真か偽か?って感じです。
これがクイズの解答となる質問として問題があるのは、既に述べている通りです。
(質問する人が存在するかどうか、非常に疑わしいから)
ただ、4の立場で、更に古典論理的に解釈しますと、うまくいきます。@は、
(wikipediaの例に従ってやっているだけで、間違ってるかもしれません)
「○○という質問する人が存在する可能世界のうち、この現実の世界の近傍の全ての
世界において、その質問に対するあなたの答えが「…」となっている」…A
この命題は真か偽か。
という質問になると思います。
この命題が偽である時は、「○○という質問をする人が存在する可能世界のうち、
この現実の世界の近傍の、ある世界において、その質問に対する
あなたの答えが「…」となっていない」場合のみです。
これならうまくいきいそうです。(>o<)
多分可能世界の実在性と、その可能世界の出来事をどうやって現実世界で認識するのか、等と言った一切のことを認めれば
、1の範囲で論理式に表すことが可能で、
更に、クイズの解答となるべき質問として、Aなら私も十分に納得いきます。
ですが、私はその諸々の一切のことを、手放しに認める立場(いわゆる、
4を手放しに認める立場)にはなれませんので、私としては模範解答には見えません。
>そういえば門番が「P→Q」と解釈したのであれば、「はい」と答えれば命題Qが
>真ですから、「P→Q」という命題はPの真偽に関係なく真ですよね。
「答える」を、単純に考えすぎだと思います。答えることは、
単に「言う」と違って、質問内容に依存します。また、質問する人が
存在することが前提です。(
>>14のコメの後半)
要するに『「はい」と答えれば命題Qが真ですから、』の部分が間違いだと思います。
質問文中の『○○と聞かれたら、「はい」と【答えますか】?』の
【答える】は、○○という質問に依存しています。
そして、『「はい」と【答えれば】命題Qは真ですから』の【答える】は、
○○という質問ではなく、『○○と聞かれたら、「はい」と答えますか?』
という質問に依存しています。
従って、これらの【答え】を明確に区別すれば、Qは真とは限りません。
ボムボム 2010/02/15 20:49
遠いですが、今気付きました
基本的には
「反事実的条件文を使った疑問文を真理関数で表すことができない」
という立場です。
結局この手の問題に対する答えとしてよく言われる
「◯◯と聞かれたら、…と答えるか?」
みたいなので構わない、という考えです
そもそも
「はい or いいえ で答えられる質問」
とは書いていますけど、その質問文を論理式に書き直せるかどうかが疑問です。
反事実的条件文を「P→Q」と書き直せるかどうかというところで、この手の疑問文は書き直せないとする考え方が、上でいうDavid Kellogg Lewisの可能世界論の話につながっていく、ということで上で取り上げました。
「◯◯なら」という文章をすべて「P→Q」のようにすると、例えば
蛙が哺乳類でないことを知ってる人が、「もし蛙が哺乳類だったら…」と展開する文章と
蛙が哺乳類かどうか知らない人が、「蛙が哺乳類なら…」と展開する文章のニュアンスの違いが出ないです。
そういえば門番が「P→Q」と解釈したのであれば、「はい」と答えれば命題Qが真ですから、「P→Q」という命題はPの真偽に関係なく真ですよね。
そういう考え方でいくと、そもそも回数制限は意味がないですよね。