全ての人に公平なルールになっている、と考えるのも一つの自然な考え方かとは
思いますが、この手の正直村・嘘つき村の問題の万能の答えである
「人が来るのを待てば、1回の質問で必ずどれが天国の門か決定できる。」
というのを、万能な正解として認める、ということでしょうか?
仮に認める場合には、
問題文が「どんな質問をすればいいでしょう」でも、
「人が来るのを待って、私は「〜」と言う質問を、
2人目の人は「〜」と言う質問をすればよい。」
という答えになりますので、完璧な正解として認めざるを得ないことになります。
>「P→Q」の定義は「¬P∨Q」ということで、自然言語の「ならば」とは
>似て非なるものです。
>似た意味になるように定義されたためにかえって誤解を招いていると思います。
>>10のコメ,
>>12,
>>14のコメ,
>>23のコメ、等をご覧になればわかるように、
私も、いはらさんの仰る通り、論理学でいう「P→Q」と、
自然言語の「PならばQ」には意味上のギャップが存在すると考えています。
(つまり、似て非なるものです。)
ただ、論理学でいう「P→Q」が、自然言語の「PならばQ」のモデルである以上、
やはり似ている部分が多いわけです。
>>24の最後の部分でいはらさんが仰っているように、
つまり、Pが真である時は、論理学の「P→Q」の真偽と、自然言語の「PならばQ」
の真偽、は意味上においても、ほぼ一致します。
Pが偽の時「P→Q」を論理学で真とするのは、意味的に一致するから、
というよりは、むしろ「命題は、その対偶と真偽が一致した方が都合良い」
という論理上の要請によるものだと思います。
>「もしあなたが蛙だったら、あなたは哺乳類ですか?」
>という質問を人間にする場合を考えてみましょう。
「もしあなたが蛙だったら、あなたは哺乳類ですか?」…@と言う答えには、
多くの『人間』は「いいえ」と答えることは全くその通りだと思います。
(なぜ「蛙は哺乳類か?」という質問じゃないのか、と少し疑問に思う人はいる
でしょうが。
)
しかし、多くの人は「蛙→哺乳類」の真偽を問う質問だと思い、
その事実が偽であるから、「いいえ」と答えるのです。
同じ人に続けて、なぜ「いいえ」と答えたかを聞くと、間違いなく
「蛙は哺乳類じゃないから」と答えることでしょう。
質問の文章を少し変えて、次のような質問をすると、
ほとんどの人が「いいえ」とは答えないと思います。
「あなたは蛙なので、あなたは哺乳類ですよね?」…A
多くの人は、「私は蛙じゃない」と答えるはずです。
もしくは「仮に私が蛙だとすると、私は哺乳類ではないが、そもそも私は蛙じゃない」
と答える人もいると思います。
@とAの違いは、
>>23のコメのAと@の違いかと思います。
それはそれとして、一貫して言っていることは、「正直者と嘘つき」の問題で
質問する相手は、明らかに『人間』ではなく、常に正直に、あるいは常に嘘をいう、
『(古典)論理の世界の住人』であることを考慮しなければならないことです。
そういう人たちに、誤解されかねないような、多少問題のある質問文である、という
ことが言いたいわけです。
>Pが真でない場合、
>Pが真であるという前提と組み合わせると矛盾します。
>矛盾を含む公理系では任意の命題が証明できますのでQは真となります。
>2つを合わせると、「P→Q」は「¬P∨Q」と同値ということになります。
古典論理は矛盾を『許容しない』論理です。(つまり、P∧¬Pを常に偽とする論理)
Pが真でない場合は、排中律よりPは偽であり、「P→Q」が真になるだけであって、
Qは真であっても、偽であってもいいわけです。
P→Qが「¬P∨Q」が同値であるのは、むしろ「P→Q」とその対偶「¬Q→¬P」
が同値であってほしいから、そのようにされているだけです。
ある命題と、その対偶との真偽が一致してほしいのであれば、
「P→Q」と「¬P∨Q」が同じことを言っていることを認めざるを得ません。(-へ-;)
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ちなみに、私の立場は、
@「正直者と嘘つき」の問題は、古典論理を前提にしていると思われる。
A古典論理の範囲で解釈すると、問題が起こる。
B@とAから、古典論理で解釈されると不都合が起きるような質問は
できればしない方が良いのではないか。
って感じです。
何も、反事実的条件文を否定するつもりはありません。
いはら 2010/02/15 12:36
>この手の問題は「人が来るのをまてば、1回の質問でできる」が
>常に正解になるので、クイズにならないと思うんです。
>ですから、暗黙的ではありますが、「門番は一人しか質問を受け付けない」
>というオプションは皆認めている所だと思います。
私は認めていないですよ
それだと、その人以外は門番に質問することができないことになります。
どうしてその人だけ特別扱いされないといけないのでしょう。
すべての人に公平なルールになっていると考えるほうが自然だと思います。
問題文が「どうすればいいでしょう」となっていたら、
人が来るのを待って協力し合う、というのも正解にするべきでしょう。
問題文が「どんな質問をすればいいでしょう」となっていたら、
その答えは認められないでしょう。
「P→Q」の定義は「¬P∨Q」ということで、自然言語の「ならば」とは似て非なるものです。
似た意味になるように定義されたためにかえって誤解を招いていると思います。
何が違うのかと考えてみると、
自然言語の場合は、前提と矛盾する情報は無視しますが、
「P→Q」の場合は無視しないところが違いかと思われます。
「もしあなたが蛙だったら、あなたは哺乳類ですか?」
という質問を人間にする場合を考えてみましょう。
この質問に対する答えは、普通は「いいえ」とか「違います」のような否定語になるはずです。
その人が人間であるという事実は無視して答えることが期待されているのです。
「P→Q」は「Pが真であるという前提からQが真であるという結論を論理的に導くことができる」
という解釈になると思います。
・Pが真の場合、「P→Q」とQは同値です。
・Pが真でない場合、
Pが真であるという前提と組み合わせると矛盾します。
矛盾を含む公理系では任意の命題が証明できますのでQは真となります。
2つを合わせると、「P→Q」は「¬P∨Q」と同値ということになります。
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↓
え〜と。ボムボムさんが最終的に何を言いたいのかよく分からないのですが
ゲーデルさんの問題提起に対してどっちの立場なのでしょうか。