クイズ大陸



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?タイルコ 2010/02/11 22:37
はじめまして。
よろしくお願いします (^_^)
おもしろい問題提起ありがとうございます。

私は村長やゲーデルさんみたいにはなれそうにありませんが…
拝見してなるほどと唸ったので拙い感想を述べさせてください。

まず個人的な考えとしては、No.10のメガネ好きさんの疑問を同じように感じました。
(聞かれたらどう答えるかを聞いているのに、聞かれる事が無いから・・と判断すること)
P→Qを考える際次の質問がありえないからと読んでPを偽とすることがどうなのか。(日常的に、論理的に)
しかし、私は論理学に詳しくないため一般人が感じた意見で申し訳ないのですが、
No.12の2で述べられている
>ところが、論理学的には、「AならばB」の真偽を問われているか、
>Aを前提として、Bの真偽を問われている、と捉えられます。
を考えると論理的には正しいのかもしれません。 (○。○)

次の視点ですが、
実はこの手の問題を、私は大学の論理学の講義で受けたことがあります。
その時には「Aなら、B?」のAが真である前提で話が進んでいました。
私もこれといって疑問を持たなかったのですが、
友人に出題を繰り返すうちに、No.12で言及されている4を感じるようになりました。
(友人からもそういう答えが返ってきたことがあります)
要は、「聞かれたら」であって「聞かれていないから」どちらでもよい。ということですね。
これについて、私個人としては、失礼ながら「ひねくれた答え」的に捉えていました。「聞かれた」(A)という前提で頭の中で考えていたからでしょうか。
ただ、日常的にはそこで「(答えを知っていることなのに)聞かれていないからわからない」と答える可能性は低いと感じます。
正しいかどうかはわかりません (^^;)

おっしゃるとおり、
『「門Aが天国の門か」と聞かれたら、あなたは「はい」と答えるか?』
という文には分かりにくさ(複雑さ?)を私も感じます。
ただ「〜と聞かれたら、」の部分は、「〜なら」=ifのことだと私は思っています。
(もしこう聞かれたら、どう答える?)という状況仮定的に答えてほしい部分を「実際に聞かれない」からと決めて、全体を判断してよいものかどうか・・・そこがギャップを感じるところではありますが・・・

という疑問などみじんも感じずクイズとして紹介している(しかも最も古い問題)
私の浅はかさを反省します(;o;)
返信 編集
?ゲーデル
はじめまして。こちらこそよろしくお願いします。 (^^)
それと、先にお詫びを・・・。長文連発ですみません (^o^)
私も別に論理学の専門家ではありませんので、このような感想の中で、
どう考えればいいかを導き出せればいいな、と考えてます。(だから問題提起なんです (;_;)))

>P→Qを考える際次の質問がありえないからと読んでPを偽とすることがどうなのか。

結論から言いますと、古典論理の中では正しいが、日常では疑問が出て当然だと思います。
>>10のメガネ好きさんやタイルコさんが感じていますように、
私も、自然に納得いくことではない、微妙な問題と考えています。(-へ-;)
といいますのも、この部分は、意味的にギャップがあるとする人が多いからです。
実際、論理包含(implies)を「断言」的関係、条件文(if〜then〜)を「予想」的関係だとして、厳密に区別している論理学者もいるらしいのです。
あくまで、「〜なら、どうする?」みたいな話は、「予想」的関係であり、
〜の真偽が決まっている必要はない、とする考え方なのだろう、と勝手に想像しています。 (^o^)

ただ、このような正直者、嘘つきの問題では、「古典論理」の範疇で考えるのが一般的だと思います。
(つまり、矛盾を許容せず、あらゆる命題が真偽の2値をとる、一階述語論理のことです。一般的に「論理学」と言う場合、この意味の「古典論理」を指します。)
この古典論理の中では、やはり「AならB」というのは「A→B」か、
「Aを前提としてB」と解釈するしか方法がありません。 (;_;)
しかも前件であるAは、真偽が定まっている命題でないと、意味がなくなるわけです。

まとめますと、自然言語を「古典論理」で解釈する時に、意味上のギャップが出来ている、と考えるべきかと思います。


>日常的にはそこで「(答えを知っていることなのに)聞かれていないからわからない」と
>答える可能性は低いと感じます。

すみません。>>12の文章が少し悪かったみたいです。(;o;)
正確には、「その質問を実際にされるかどうかわからないので、答えようがない」です。
まぁ、これでもタイルコさんの仰る通りで、私も、答えを知っている質問なのに、このように答える可能性は低いと思います。

ただ、その原因をよく考えますと、『「質問する人が存在すること」が自明だから』
という理由に行きつくと思います。
つまり、「質問する人が存在すること」は、あまりに当たり前なことなので、
「答えようがない」と答える可能性は大変低いと思いますが、
「あの屋敷で、お化けが出たんだって (○。○)。お前どうする?」と言われれば、
「どうするといわれても・・・」と答える可能性は十分あると思います。


>『「門Aが天国の門か」と聞かれたら、あなたは「はい」と答えるか?』
>という文には分かりにくさ(複雑さ?)を私も感じます。

複雑さについてですが、実は「答える」という部分が一番厄介です。 (~。~)
『「A」と言う質問に、「B」と答える』・・・@
という文章において、「答える」という言葉は、少なくともA(質問された内容)に
依存していますので、関数でF(A)と表していいかと思われます。
従って、単純に@を『F(A) = B』と表せばいいのではないか、と思えるわけです。 (*^_^*)

しかし、当然ながら、質問をされないと、答えられないわけで、
『「A」という質問をする人が存在する』ことが前提となっています。・・・A

もし、自然言語を古典論理で表現しようとするならば、「答える」という言葉は、
「A」という質問をする人が存在することが証明されていなければ、
使用してはいけません。(*語弊があるかもしれません (+_+)

このAをどう考えるかで、微妙なんですよね。
普通は、Aが真であることは自明なこととして考えます。
(だって、普通に考えれば、質問できないはずがありませんから。)
ただし、『1回しか質問できない』、などといった前提の話をする時には、
Aは必ずしも自明ではありません。そこが問題だと思うんですよね。 (*^_^*)

あと、入れ子構造の質問をする以上、「質問」の定義をどうするか、という問題もあります。(-へ-;)
これについては大した問題ではありませんが、何の解説なしに使用するのは、
ためらわれるのではないかと思います。