死刑囚のパラドックスとの違いを考えてみました。
私なりの理解としては「テスト後も生徒が生きていること」です。
死刑囚の方では,死刑執行後は抗議も何も出来ませんからね。
死刑囚の方では,死刑という者の性質上,「死刑を行わない」ための記述が問題になります。
抜き打ちテストの方でも「テストを行わない」ための記述を問題にすれば,パラドックスの構造はほぼ同じになると思います。
しかし,抜き打ちテストの方では死刑とは異なり「テストは行われてもいいが,それが『抜き打ち』かどうかだけを問題にする」ことが出来ると思います。
つまり,私の考える生徒からの反論はこうです。
「金曜日に予定通りテストを受けた後,後日になってから『不意を付かれなかった』と主張する。」
「1回フェイク作戦」は,生徒の反論がまだ予告した期間中だからこそできる作戦です。
予告期間終了後に「あれは抜き打ちじゃなかったでしょ。先生は嘘を吐いた。」と言われたら使えません。
ま,テスト自体は受けちゃってるので,もともとの出題意図から言うと論点ずれまくってるとは思いますが。
抜き打ちテストの方だとこういうような見方もできるかな,という一私案です
私なりの理解としては「テスト後も生徒が生きていること」です。
死刑囚の方では,死刑執行後は抗議も何も出来ませんからね。
死刑囚の方では,死刑という者の性質上,「死刑を行わない」ための記述が問題になります。
抜き打ちテストの方でも「テストを行わない」ための記述を問題にすれば,パラドックスの構造はほぼ同じになると思います。
しかし,抜き打ちテストの方では死刑とは異なり「テストは行われてもいいが,それが『抜き打ち』かどうかだけを問題にする」ことが出来ると思います。
つまり,私の考える生徒からの反論はこうです。
「金曜日に予定通りテストを受けた後,後日になってから『不意を付かれなかった』と主張する。」
「1回フェイク作戦」は,生徒の反論がまだ予告した期間中だからこそできる作戦です。
予告期間終了後に「あれは抜き打ちじゃなかったでしょ。先生は嘘を吐いた。」と言われたら使えません。
ま,テスト自体は受けちゃってるので,もともとの出題意図から言うと論点ずれまくってるとは思いますが。
抜き打ちテストの方だとこういうような見方もできるかな,という一私案です