新約聖書の「善きサマリア人の喩え」から
ある律法の専門家が立ち上がり、彼を試そうとして言った、「先生、わたしは何をすれば永遠の命を受け継げるのでしょうか」。
イエスは彼に言った、「律法には何と書かれているか。あなたはそれをどう読んでいるのか」。
彼は答えた、「あなたは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神なる主を愛さなければならない。そして、隣人を自分自身のように愛さなければならない。」
イエスは彼に言った、「あなたは正しく答えた。それを行ないなさい。そうすれば生きるだろう」。
しかし彼は、自分を正当化したいと思って、イエスに答えた、「わたしの隣人とはだれですか」。
イエスは答えた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗たちの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ、殴りつけ、半殺しにして去って行った。たまたまある祭司がその道を下って来た。彼を見ると、反対側を通って行ってしまった。同じように一人のレビ人も、その場所に来て、彼を見ると、反対側を通って行ってしまった。ところが、旅行していたあるサマリア人が、彼のところにやって来た。彼を見ると、哀れみに動かされ、彼に近づき、その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。彼を自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、世話をした。次の日、出発するとき、二デナリオンを取り出してそこの主人に渡して、言った、『この人の世話をして欲しい。何でもこれ以外の出費があれば、わたしが戻って来たときに返金するから』。さて、あなたは、この三人のうちのだれが、強盗たちの手中に落ちた人の隣人になったと思うか」。
彼は言った、「その人にあわれみを示した者です」。
するとイエスは彼に言った、「行って、同じようにしなさい」。
『ルカによる福音書』第10章第26〜37節
祭司やレビ人が見て見ぬふりをしたのは、両者は祭礼に拘わる人物であり、人命救助より祭礼を優先したとする説。また、同じく祭礼に拘わる人物には「死体に触れてはならない」禁忌があり、被害者がもし死んでいたならば、禁忌に反することになることを恐れたためという説がある。
このことから、「善きサマリア人」とは、「そのことによって、自分が不利益を被るリスクを顧みず人助けをする行為」を指すようになった。
これをみて神父が愛の反対は憎しみと答える人がいるかもしれません
愛は人を思うことで 憎しみは憎んでいる時点でその人を思っていますなので矛盾が起きます。
人を思わないということは無関心なので
愛の反対は無関心です
難波の天狗 2009/05/04 22:55
祭司やレビ人が見て見ぬふりをしたのは、両者は祭礼に拘わる人物であり、人命救助より祭礼を優先したとする説。また、同じく祭礼に拘わる人物には「死体に触れてはならない」禁忌があり、被害者がもし死んでいたならば、禁忌に反することになることを恐れたためという説がある。
このことから、「善きサマリア人」とは、「そのことによって、自分が不利益を被るリスクを顧みず人助けをする行為」を指すようになった。
これをみて神父が愛の反対は憎しみと答える人がいるかもしれません
愛は人を思うことで
憎しみは憎んでいる時点でその人を思っています
なので矛盾が起きます。
人を思わないということは無関心なので
愛の反対は無関心です