あまり、物についての定義は考えない方が良いでしょう。
と私が言うのも無責任かも知れませんが…本来、『20の扉』で設定される解答は、林檎や消火器
…といった、大多数の人間が
「これはモノか?」
と問われた時に
「はい。そうです」
と反射的、無意識的に答えるであろうものであることが重要なのです。
(などと言っている私自身、この原則に反するようになってきましたが)
判断が難しい事物を解答に設定する場合は、自分の力量が問われる…というだけのこと。
【物】をどう捉えるのか…何に拠っているのか?によって答えは違ってきます。物理学、哲学など
色々な分野で【物】の解釈は異なるでしょう。面白いところだと宗教…特に仏教的な解釈でいうと
『この世に、物ではない物はない』
というような感じですからね。
まるっきりの主観によって断定してしまうことを避け、
分からないことには「分からない」「私はこう考えているが、それが一般的な理解を得られるかは
不透明…」
これでいいのではないでしょうか?
食べ物=物です。(食べることが可能である【物】と解釈するのが理解を得やすいのでは?)
「物ですか?」と問われて「食べ物です」と答えるのは私に20の扉を出題するなというに等しい
![(^^;)](/image/bbs/smile05.gif)
牛肉と牛の死体の違いは、食べるために加工されているか否か(人間に「食べる」という意思が
働いているか?)でしょう。牛肉は食べるために存在しています。牛の死体も牛の肉なわけです
から食することは可能ですが、そのために存在しているわけではありません。逆にいうなら、食肉
にするために屠殺された牛は、その形状を保っていても牛肉と呼んで差し支えないでしょう。
と私が言うのも無責任かも知れませんが…本来、『20の扉』で設定される解答は、林檎や消火器
…といった、大多数の人間が
「これはモノか?」
と問われた時に
「はい。そうです」
と反射的、無意識的に答えるであろうものであることが重要なのです。
(などと言っている私自身、この原則に反するようになってきましたが)
判断が難しい事物を解答に設定する場合は、自分の力量が問われる…というだけのこと。
【物】をどう捉えるのか…何に拠っているのか?によって答えは違ってきます。物理学、哲学など
色々な分野で【物】の解釈は異なるでしょう。面白いところだと宗教…特に仏教的な解釈でいうと
『この世に、物ではない物はない』
というような感じですからね。
まるっきりの主観によって断定してしまうことを避け、
分からないことには「分からない」「私はこう考えているが、それが一般的な理解を得られるかは
不透明…」
これでいいのではないでしょうか?
食べ物=物です。(食べることが可能である【物】と解釈するのが理解を得やすいのでは?)
「物ですか?」と問われて「食べ物です」と答えるのは私に20の扉を出題するなというに等しい
牛肉と牛の死体の違いは、食べるために加工されているか否か(人間に「食べる」という意思が
働いているか?)でしょう。牛肉は食べるために存在しています。牛の死体も牛の肉なわけです
から食することは可能ですが、そのために存在しているわけではありません。逆にいうなら、食肉
にするために屠殺された牛は、その形状を保っていても牛肉と呼んで差し支えないでしょう。